
海を越えた一人の人物から、北條家の物語は始まります。
故郷を離れ、佐渡へ流された北條道益。
島で医業を営むようになったその歩みは、七代にわたる医家の歴史へと続いていきました。
今も残る建物と医学資料には、人々が生き、暮らしを重ねた時間が宿っています。
海を越えてきた運命
寛文3年(1663年)、丹波の真言宗寺院の住職だった道益は、越訴の罪によって佐渡へ配流されました。
寺領をめぐる争いの解決を求め、正規の手続きを越えて訴え出たと伝えられています。
配流は、本人の意思に反して故郷から引き離される厳しい制度でした。
その経験を美化することはできません。
道益のその後の歩みを知るときにも、まず、その出発点に目を向けたいと思います。
道益の歩み
- 1663
寛文3年
丹波から、佐渡へ
真言宗寺院の住職だった道益は、越訴の罪によって佐渡へ配流される。
- 相川
流人から、相川の医師へ
金銀山で栄える相川の弥十郎町に住み、医業と卜筮〈ぼくぜい・占い〉を営んだ。奉行所とも関わりがあった。
- 1683
天和3年
二人の流人
公家・小倉実起〈おぐら さねおき〉の治療にあたる。医師と患者は、ともに流人という境遇にあった。
- 1695
元禄8年
赦免、そして泉へ
赦免された道益は、やがて泉に住み、医療に従事した。
道益が医業と卜筮を営んだのは、金銀山で栄えた相川でした。
医学と占いが併存した当時の医師の姿を、その記録からうかがうことができます。
二人の流人を結んだもの
治療によって実起の病状は一時回復したと記録されています。
のちに実起は亡くなり、その眼鏡とケースが道益に贈られ、北條家に伝わりました。
生まれも立場も異なる二人が、どのような思いを交わしたのか、今の私たちには分かりません。
残された病歴書と品々が、医療を通じた関わりを伝えています。


七代の医家がつないだもの
北條家の医系は七代・三省まで続きます。
「七代」は医業の系譜であり、その後も続いた家系の代数とは区別するものです。
- 初代
道益慶長17年〜宝永5年10月9日(1612〜1708)・96歳
丹波の僧。流人として佐渡へ渡り、医の道を開く
- 二代
道悼〜宝暦7年12月19日(1757)
初代が体系づけた医学を受け継いだ代
- 三代
利右衛門
ただ一人、医業を継がなかった
- 四代
道益
古医方と産科を修めた
- 五代
道悦
漢方と蘭方、それぞれの長所を併せる立場へ
- 六代
玄通
幕末から明治へ
- 七代
三省〜明治17年3月6日(1884)
医系はここで絶える
生没年は、記録で確かめられた代のみ記しています。
時代とともに医学は変わり、書物や道具も増えていきました。
残された医学資料は、地方の医師たちが何を学び、どのように人々を診ていたのかを読み解く手がかりです。
泉の里山で重ねた時間
金北山の裾野に広がる泉。
田畑、山からの水、集落と祈りの場所が、北條家の暮らしを取り囲んできました。
医家としての日々も、一つの家族が暮らした歳月も、この土地の営みの中にあります。
建物を知り、道具を見つめ、土地を歩く。
その一つひとつから、長い物語の輪郭が浮かび上がります。
出典:当主資料「時を重ねる家」、佐渡学センター 両津郷土博物館 企画展「北條家医学関係資料 流人の医師 北條道益」(平成24年)、『金沢村史稿本』(昭和9年)。




